動楽(どうがく)のすすめ

筑波大学・大学院人間総合科学研究科・助教授
長谷川 聖修

中田選手の引退
 それは突然の出来事であった。中田選手はこんな書き出しでその心境をサイトに綴った。「八歳の冬、寒空のもと山梨のとある小学校の校庭の片隅からその旅は始まった。あの頃はボールを蹴ることに夢中になり、必死でゴールを決めることだけを目指した。そして、ひたすらゲームを楽しんだ」そして、常に「勝つ」ことを求められたプロ選手・日本代表選手としての葛藤を語った上で、「旅先の路地で、草むらで、小さなグラウンドで、誰かと言葉を交わす代わりにボールを蹴るだろう。子供の頃の瑞々しい気持ちを持って」と結んでいる。
 スポーツは、何かのためにするのではない、純粋にそのことが楽しいから行うのだという子どもの頃の原点に、再び戻ることのできた中田選手は、スポーツの本来あるべき姿を示している。
 しかし、一方で、「何かのために」するスポーツや運動のあり方も存在する。昨今の事情で言えば、スポーツ分野では「勝つために、お金を得るために」フィットネス分野では「ダイエットやたるんだ体をシェイプアップするため」、健康分野では「生活習慣病やメタボリックシンドロームの予防のため」、介護分野では「転倒予防や寝たきり予防のため」、教育分野では「体力・運動能力を高めるため」「仲間との交流を図るため」等々、それらの例を挙げれば切りがない。こうした何かのために「せねばならない」と思いながら体を動かそうとする営みは、私たち現代人のライフスタイルの特徴とも言えるかもしれない。養老氏が指摘するように、日常生活では脳という意識が情報のinputだけを繰り返していて、身体運動というoutputがなされていない(第56回日本体育学会・基調講演)。だから、脳が「動かなくては」と意識しても、身体という「自然」はそうは言うことを聞いてくれない。例えば、予防介護の観点から高齢者のための筋トレが勧められているが、リピーターはせいぜい一割だという。また、体力向上を目指した体育の教材が子どもたちを益々運動嫌いにさせてしまうという悲劇は繰り返し言われてきた。そろそろ、必要感や義務感で体を動かすこと、つまり、知識や理性から身体活動を行うのではなく、身体が本来持っている欲求や感情から運動することそのものの楽しさや喜びをもう一度考え直してはどうかと思う。私たちは、そもそも人間が動物の一種であることを忘れているかのようだ。理屈は知らなくとも、大あくびして体を伸ばし(ストレッチ)、気持ちよさそうにしているワンコと同じ仲間のはずなのに。

学校が楽しくない理由
 都養護教諭研究会は、2004年秋、小学校110校の4〜6年生、中学校94校の1〜3年生約1万1000人ずつに調査した。結果によると、学校が楽しいかという問いに「楽しくない」と答えたのは小学生の10%の約1000人と、中学生の11%の約1300人。学校が楽しくないという子どものうち、6割がその理由として「めんどうくさい」を挙げ、5割が「からだがつかれる」と答えたことが明らかにされた。


(http://www.asahi.com/edu/news/TKY200605180194.html)。


 子どもたちの運動能力・身体能力の低下傾向が続く中、筆者が最も恐れているのは、前述のように身体活動そのものを嫌がるような子どもが驚くほど増えていることである。子犬や子猫が、小さい頃に仲間とじゃれて遊びながら成長するように、人類の歴史を遡れば、動物の一種であるヒトも子どもの頃は何事にも興味を抱き、様々な身体経験を積み重ねることを通じて育まれてきたはずである。
 ここで、その背景を詳細に分析する紙面的余裕はないが、少なくとも従来のスポーツや運動内容をどう教えるのかといった方法論の問題ではとても解決できない。人間にとって動くことそのものの価値が問われていることだけは確かだと思う。
「体つくり運動」から「動楽」へ
「心と体を一体としてとらえ」という保健体育分野の新たな目標設定を理由に、体操の名称は「体つくり運動」へと変更された。体操という名称がオリンピックの体操競技と旧来の体操領域で概念的な区別ができていない日本の現状から、名称変更は必然であった。体操競技は早くから学校体育においては「器械運動」と呼んで領域概念を明確にしてきた。いつまでもあやふやな概念のまま「体操」という言葉にこだわったことが、結果として、「体つくり運動」という名称の出現を招いた。今になって思えば、体操関係者で二一世紀の時代に相応しい名称をその時点で提案すべきだったと反省している。もちろん、教師が子どもたちの体力を高めることをねらいとして配慮することは当然である。しかし、子どもたち自身が動くことに喜びを感じなければ、結果として今に生きる子どもたちの体力低下を防ぎ、生涯にわたってスポーツに親ませることは難しいと考える。
 そこで、筆者は、この堅苦しい名称に代えて「動楽(どうがく)」という新しい概念を提案する。
 日本では「音楽」と言う言葉が一般的に使われるようになったのは明治以後で、古くから「音楽」の意味で「楽」の字をあてる習慣があり、やはり雅楽などを示唆することが多かった。また、楽の字の訓読みとしては「あそび・あそぶ」意味したとされる。ただし「あそび」は、音楽だけでなく、狩猟その他の日常生活からやや離れた特殊な活動をさす多義的な大和(やまと)ことばである(日本大百科全書:小学館)。つまり「楽(がく)」とは、実はSPORTの語源に当たるラテン語deportare「遊び・楽しみ・気晴らし」に近い概念と理解できる。この音を遊ぶ「音楽」という言葉をヒントとして、動くことそのものを楽しむプログラムを提案し、これを「動楽」と名付けた。つまり、運動材を手段化したり、媒介動作としてのエクササイズにするのではなく、動きの中に内在する快感情を起点として「弾・流・転」等を主とした運動プログラムの総称である。
身体が弾めば、心も「弾」む
 私達は、日常生活で当たり前のこととして経験しているが、泣いている赤ん坊をあやす時、軽く赤ん坊を抱きながら、必ず弾む。また「笑うことは決してないだろう」と医師に告げられた重度の脳障害を持つ子供でも上下動をすると、ほとんどの子供は笑うという。こうしたリズミカルな上下動の刺激は生理的変化を増幅し、それを快感として感じるシステムを人間持っているからだ。(写真 Gボール遊び)


滑って「流」感覚を遊ぶ
 スキー、スケート、サーフィン、インラインスケート、スケートボード、土手滑り(写真)等、滑る運動は、理屈なしで楽しい。何度転んでもチャレンジする。そのダイナミックなスピード感は何物にも代えられない。

回って「転」び、眩暈を遊ぶ
カイヨワの言を借りれば、人間は眩暈(めまいIlinx)の魅力を求めて遊ぶ。(写真 空中ブランコ)



 現代社会は、ただひたすらに効率化や利便性が求められ、人々の日常から「動き」が奪われている。本来、ヒトが動物の一種としての身につけてきた豊かな「動き」を取り戻すことが「動楽」の目指すところである。中田選手が子どもの頃にただ夢中でボールを追って遊んでいたように。